ジュエルボックスをひっくり返したような街の明かり。
不夜城と喩えられる都心の一角。
駐車場に停めた車の中に咥えタバコの男がいた。
点在する蛍光灯で明るい地下駐車場に人影はなく、車も男が乗っている一台だけ。
どこに行っても人波をかき分けなくては歩けない都会にあって、その場所だけは静まりかえっている。
靴を脱いでシートに足を置き、膝に腕を乗せていた男は、ゆっくりとネクタイを緩め、手に持っている携帯電話をじっと見つめ、独りごちた。
【男】
「うまくやってくれよ・・・」
缶コーヒーを飲み、再びタバコを咥え直す。
その時、軽い振動と共に携帯電話のイルミネーションがカラフルに点滅した。
ついに来た。
着信音が鳴る前に開く。
電話を耳に当てる前にタバコは食べてしまう。
チョコとコーヒーはなかなか合うのだ。
男が咥えていたのはシガーチョコだった。
・・・
【やよい】
「もしもし、プロデューサーさんですか?」
【P】
「おっ、やよいちゃん。首尾はどうだい?」
【やよい】
「はいっ、大丈夫れぅ! 誰にも気付かれていませんっ」
【P】
「でかした、やよいちゃん! 春香さんはどうなった」
【やよい】
「うっうー、大丈夫だと思うのですが、かなりゴキゲンな感じです」
席を立った時は踊ってたそうです・・・。
ちなみにオイラは2人よりも先に席を立って事務所に戻り、急いで車に乗って戻ってきました。
いろいろ迷ったのですが、もし、春香さんだとバレた場合、「酔ってる上に、近くには男がいた」となるよりは女の子の友達と一緒だったって言われる方が良いと思ったわけです。
やよたんはそんなに売れていないので顔は知れ渡っていませんしね。
一応、こういう時のために鞄に入れている伊達メガネと目深に被れるニットキャップを渡しておいたので、そう簡単には「アイドルの天海春香だ!」ってバレることはありません。
背筋と身体のライン、歩き方と笑顔にさえ気をつければ、そんなに芸能人オーラは出ないものです。
身体に関しては夜だから誤魔化せますし、歩き方は酔っぱらい、顔はさっきの変装で何とかなったのでしょう。
【P】
「やよいちゃん、支払いの方は?」
【やよい】
「はいっ、お店の人が後日、事務所の方に請求書を回して下さるそうです。えっと・・・P宛でいいんですよね?」
【P】
「うん、そうだよ。いろいろありがとうね、やよいちゃん」
うーむ、致し方あるまい。
あの状態で春香さんのクレジットカードを使うわけにもいきません。
手持ちの現金は3人して微妙(やよいちゃん280円、オレ5200円、春香さんは不明)だったので、足りる足りないでキャッシャー前に長居されたくもなかったですし。
【やよい】
「どういたしまして! あと、この事は誰にも言わないれぅ!」
【P】
「そうしてもらえると本当に助かるよ。あ、電車賃は・・・」
【やよい】
「それなら春香さんにいただきました」
【P】
「良かったよ・・・オレが店を出る時に渡し忘れちゃったからさ」
【やよい】
「でも、カワイイからお小遣いあげるって言って、1万円札を渡されちゃいました。電車賃には多すぎますぅ」
腕をぶんぶん振り回して困ってるやよたんが見えるようです。
ああ、もう、かあいいなあ!
【P】
「ははは、春香さんがお小遣いって言ったんだから、気にせずにもらっておけばいいよ。ありがとうね。今日はお疲れさま」
【やよい】
「はいっ! プロデューサーさんもお疲れさまでした。春香さんから借りたケータイは、明日にでも小鳥さんに渡しておきます」
【P】
「うん、ありがとね」
どうやら2人は誰にも気付かれることなく、店を出ることが出来たようです。
なんだってそんな面倒なことをしてるのかって?
春香さんが完全に酔っぱらっていたので、ファンに見つかって騒がれないか心配したんですよ!
やよいちゃんがうまくやってくれなかったらどうなってた事か・・・。
タバコ吸った、お酒飲んだであっという間に干されるのがこの業界です。
それが違法行為ならなおさらです。
ってか、違法じゃなくてもアイドルってのは偶像ですからね。
ファンの皆様の妄想力がプラスされてしまうのです。
酒・タバコはもちろん、安い定食屋やラーメン屋には入りませんし、汗をかけばフルーティなかほりがします。
まあ、これについては大いに賛成ですが、ついでにう○こしません。
お尻からはイチゴが出ると信じているファンはいくらでもいるのです!
んなもん出ねーYO!(←出たら病気です)
というわけで、オレは春香さんとの待ち合わせ場所へ車を向かわせました。
東京は夜でも本当に明るいので、暗がりを探すのは苦労します。
相当数の観客を収容できるスタジオ周辺は特に。
都心の中にあって、目立たない小さな公園の入り口には、日本全国に顔が知れ渡っているトップアイドルが立っていました。
月明かりに照らされて微笑んでいるのを見るかぎり、月の女神が間違って降り立ったんじゃないかと思える光景ですが、ほんのりと上気した頬、少しとろ〜んとした目。
ただの酔っぱらいです。
甘い杏ジュース(本人談)を少々、飲み過ぎたという事になっているAランクアイドル、天海春香さんその人でした。
・・・
『春香さんと夜のスリルドライブ』
【P】
「えっと、春香さん。たしか中央線沿線だって聞いていたんですけど、国立のあたりですか? 23区外だっていうのは知ってるんですが・・・」
横では超ゴキゲンな春香さんがケラケラ笑っています。
さっきまでシートベルトに絡まって遊んでいました。
気がつかないウチに、どんだけ杏ジュース(本人談)を飲んだんですか・・・まったくもう。
【春香】
「プロデューサーさん、高速ですよ、高速。中央フリーウェイの八王子で下りて下さいっ♪」
【P】
「げげっ! 八王子ですか」
遠い遠いとは聞いていましたが、まさか八王子とは・・・。
ちなみに事務所のある都内某駅より、約1時間くらいでしょうか。
とほほ・・・。
【春香】
「ちがいますよー。八王子インターを下りたら、16号を経由して五日市街道に入って下さい」
【P】
「うほっ、五日市街道ですか。福生とか羽村方面ですね」
東京都の地理に詳しくない皆様ごめんなさい。
よく分からない方はネットの地図サイトで確認して下さい。
今もネットでこれ読んでるでしょ?(←何言ってんだよ、おめーはよ!)
要するに都心からかなり遠い場所だと推測される感じなんでございます。
【春香】
「ええと、JRの駅ですとー、中央本線の方ではなく青梅線の方なんですよ〜♪」
青梅キタコレ。
横田基地がある福生、玉川上水の起点がある羽村よりさらに奥ですよ。
【P】
「ハハハ、遠距離通勤とは聞いていましたが・・・青梅でしたか」
【春香】
「ちがいますよー、16号から奥多摩街道に入っての五日市方面です。もし分からなかったら青梅街道か吉野街道に出ちゃってもいいですよ〜♪」
ほっこりした表情で、とんでもない事を言われました。
春香さんがしゃべるとどんどん車内が酒臭くなりますYO!
【P】
「えっ・・・と、青梅のもっと奥になるのかなぁ」
【春香】
「はい♪ ぜんぜん奥ですよ、プロデューサーさん」
はい♪ って!
重ね重ね、地理の分からない方には申し訳ありません。
良かったらコンビニで地図でも買って確認してく(以下省略)
要するにドえらく遠い所だと判明したのでございます。
【P】
「た、た、高尾山だなんて・・・」
山登りできるところですか。
そうですか。
【春香】
「いやですよぅ。もっと奥ですよーっ♪」
ギャフン!
ってことはナンですか?
3月中旬には梅の花見客で賑わうという、
【P】
「吉野梅郷の・・・」
【春香】
「もちろん通りますよ〜♪」
あっへ〜〜〜。
通過点ですかーい。
ええーい、もっと奥ってことなら・・・
【P】
「ダム?」
【春香】
「はいっ、近くです!」
最寄りは奥多摩駅ですか!!
ソウデスカ・・・。
オネガイダカラ チカクニ ヒッコシテ・・・
今だって中央高速を軽快に飛ばしています。
一応、法定速度は守ってるオイラのワンボックス。
右に見えるは競馬場、左はビール工場♪ ってヤツです。
再び都心の明かりを見れるのは一体、何時間後になるんでしょうか・・・。
【P】
「アハアハ・・・ちょっと遠いネ」
【春香】
「奥多摩の駅を越えると檜原街道っていうのがありまして、その近くまで行ったら案内できます」
ニコってしてます。
素敵です。
素敵に、そして絶望的に遠いことが判明しますた。
・・・
石川サービスエリアで、念のための給油とトイレ休憩を済ませておく事にしました。
生まれも育ちも練馬っ子のオイラにとって、この先は未開の地です。
八王子及び青梅市民の皆様、秘境扱いして大変、申し訳ございません。
でも、ご安心下さい。
練馬も23区内で一番、緑が多いという元東京都外です。
【P】
「ふ〜〜〜」
車の外で背伸びなんぞをしています。
星空がとても綺麗です。
キラキラと輝いています。
先ほどのMHKホールで見たサイリウムの海を思い出してしまいますよ。
ホールを埋め尽くす人達の視線を一身に集めていた歌姫、星で言えば一等星、まさにスターの天海春香さんはお手洗いに行っています。
オイラは子供の頃、アイドルはトイレになんか行かないって信じてました。
変な話ですが、我ら庶民とは身体の作りが違うのだと信じ込んでおりました。
もはや信者と言えるファンの皆様は未だにその神話を信じているようですが・・・。
今の状況を見る限り、やっぱトイレには行くみたいです。
ね?
行くんですよ。
出るモンは出るんです。
かなり昔に子供ではなくなったオイラは、アイドルだってトイレに行くって理解しているのです。
フフン♪
顔と手を洗いに行っていると固く信じているのはナイショです。
も、も、もしリアルに体重を軽量化しているとしたら・・・。
そんなありえない現象があるとしたら・・・。
春香さんのは・・・きっと美味しいと思います!
【春香】
「・・・」
うおっ、後ろに閣下が!
た、立ったね!?
オヤジにも立たれたことないのにっ!!!
【春香】
「どうしました、プロデューサーさん?」
良かった。
春香さんに、美希ちゃんのようなニュータイプ能力がなくて本当に助かりました。
カンケーないですが、美希ちゃんのもきっと美味しいと思います!
レコーディングスタジオで「頭脳労働をすると脳内の糖分が不足をするんだよねぇ」とか言いながら、缶コーヒーを片手に羊羹をかじってる冬本Pのはきっと甘いと思います。
その場合はまあ、アレを患ってることになるわけですが。
糖分は控えめに!
夜中の牛丼はほどほどに!
オイラとの約束だぜっ(キラーン)
【春香】
「売店でホットドッグとコーヒーを買ってきましたよ」
【P】
「ハッ!」
(↑やよたんのもゆきぽたんのも亜美真美たんのも小鳥さんのも美味しいに違いないとか考えてた人)
【P】
「ありがとうございます、春香さん」
【春香】
「ふふふ、真剣な表情で何を考え込んでいたんですか?」
【P】
「ナンデモ ゴザイマセン」
言えませぬ!
ってなわけで、高速道路を下りて、道路標識を頼りに国道を走ります。
横では春香さんがニコニコしながらホットドッグを頬張っています。
どうせならフランクフルトでも頬張ってくれたら、オイラのテンションゲージもMAXになろうかと・・・。
うひ♪
ほ〜らほ〜ら、ミーのフランクフルトに歯を立てたらダメよん。
や〜ん、プロデューサーさんのお口に入りきれなーい。
なんつって、このけしからんナイスバディをアレしたりコレしたり・・・。
カシュ!
お?
春香さんが缶ジュースを美味しそうに・・・。
って、アーーーッ!
泡が!
泡がいっぱい出てる麦飲料じゃないですか。
発酵してる麦芽のおジュースじゃないですか!!
【P】
「は、は、春香さん! あーた一体おいくつですか!?」
【春香】
「いやですよぅ、女の子に年齢を聞いちゃ」
ケラケラ笑ってやがります。
これがトップアイドル。
Aランクアイドルの真の姿ですか。
【P】
「ちょっと聞いちゃいますが・・・しょっちゅう飲んでるんですか?」
【春香】
「えへへ、たまにです。あずささんや小鳥さんと一緒の時だけですけどね〜。律子がいると怒られるし」
当たり前でんがな。
これに関してはメガネが正しいです。
実際、アイドルは大きな会場でのコンサート前に緊張してしまう事が多いわけですが、実はツアーなんかの時はコンサート後に興奮状態が続いて眠れなくなるという状態に悩まされるようです。
お酒の手を借りたくなるのも分からないではないのですが、肌はもちろん喉が酒ヤケしてしまったら、ダミ声アイドルになりかねません。
よほどお酒に強いのかも・・・。
いや・・・不自然すぎですよ。
新人アイドル並みのレッスンを欠かさない春香さんが、ちょっとハメを外すというレベルではない飲み方をするなんて不自然にもほどがあります。
【P】
「ワザとですね? オレの前でこんな事してるの」
【春香】
「ん? 何の事ですか?」
【P】
「試してるんでしょ。オレの事」
【春香】
「・・・」
一瞬の沈黙。
それは肯定と受け取って良いのでしょう。
春香さんはドリンクホルダーに飲みかけの麦ジュース(本人談)を置きました。
ニコニコとした笑顔でも半目の閣下でもない、決してファンの前では見せない天海春香の素の表情でオレに向き直っています。
もっともコレだって、本当の彼女ではないかもしれませんが。
春香さんはやよいちゃんに「らしさを見せる」ことも仕事のウチだと教えていましたからね。
今から真面目な話をするよっていうジェスチュアを表情だけで伝えているのかもしれないです。
【春香】
「・・・ちょっと悪ふざけが過ぎました?」
【P】
「試すにしても、ひど過ぎませんか?」
【春香】
「だけど、やよいの・・・」
やっぱりそうだったんだ。
仕事をしていて、説明のつかない幸運が何度もあって、それを掴むのはアイドルの資質かもしれないって思ってたのです。
“持っている”ってやつですよ。
でも、ただの幸運ならタイミングの妙があるだけで、不自然なバックグラウンドが見え隠れしたりすることはないはずだとも思っていました。
【P】
「春香さんがやよいちゃんを想ってくれている気持ちは分かりますよ」
【春香】
「過去の話は過去の話です。今はやよいちゃんが自分で頑張ってます」
【P】
「それだけじゃないんです。新曲の事もそうだし、初めての営業の時から、さりげなくオレ達を見守ってくれていたんです」
【春香】
「・・・」
【P】
「春香さんクラスのアイドルが受けるはずのない、地方の健康ランドの仕事を引き受けたのもやよいちゃんのためですよね?」
【春香】
「あの時は雨が降ってきたし・・・」
【P】
「雨が降らなかったら、お腹でも痛くなる予定でしたか? オレだってこの仕事をやってきて気付いたんです。あの日、春香さんは衣装を持ってきてなかった」
かさばる上にそこそこ重量がある衣装ケースが車に積まれてなかったのは確かです。
当日、やよいちゃんは私服だったので楽なもんでしたが(おかげで穴あき靴下でしたが)、持ち歌の衣装を運ぶ時にはいつも苦労しているので分かります。
【P】
「よくよく考えてみれば、デビュー間もない無名のアイドルにポンポン営業先が飛び込んでくるなんて不自然過ぎなんですよ。担当プロデューサーのオレは駆け出しでコネもなければ、プロモーション先の目星もつけられない。春香さんのフォローがあっての事だったと考えれば、すべてつじつまが合います」
【春香】
「買いかぶりすぎですよ」
【P】
「健康ランドの支配人さんが、オレに声をかけてくれたのも、春香さんの一言があったからじゃないですか?」
【春香】
「・・・事務所の後輩を売り込むのは、べつに変な事じゃないと思いますけど」
【P】
「雪歩さんがテレビ出演した時だって、オレに付き添わせたのは春香さんですよね。付き添うだけなら、小鳥さんや律っちゃんPでも良かったはずですよ」
【春香】
「名探偵になれそうですね」
【P】
「オレがやよいちゃんの担当にふさわしいか、こんな事までして試したわけですね」
【春香】
「そういう事になりますね・・・」
【P】
「・・・なおさらひどいですよ」
【春香】
「そうかも知れないけど、こうでもしないとあなたの事が・・・」
【P】
「やよいちゃんだって悲しみますよ」
【春香】
「!?」
【P】
「オレが言ってるヒドイって、オレに対してじゃないんです。そりゃ、律っちゃんPや雪歩さんからオレの事を聞いたら心配になる気持ちはよく分かりますよ」
【春香】
「・・・」
【P】
「もしオレが、春香さんが考えていた以上に悪い男で、女の子が酔ってるのをイイ事に“襲う”ような奴だったらどうするつもりだったんですか!」
【春香】
「でも、プロデューサーさんは・・・」
【P】
「そんな事しないって言い切れないから試したんでしょ? ご自分の姿がどれだけ破壊力あるか知ってますよね? 魔が差す可能性だって大です」
【春香】
「う・・・」
【P】
「春香さんはトップアイドルなんです。スターなんですよ。やよいちゃんも美希ちゃんも、さっきのMHKホールにいたファンのみんなも春香さんが好きで、憧れなんです。この事は誰にも言わないって言ったやよいちゃんがどんだけ頑張ったか分かりますか? どんな気持ちだったか!! つまらない飲酒事件であなたが引退したら、あの子は何を信じて、誰を目指せばいいんです! オレがどんだけヘンタイか試すにしたって、春香さんがやる事じゃないでしょう!?」
【春香】
「だって!」
【P】
「トップアイドルなんだ! あなたが一番なんだ! フェチでロリでどうしょもない男の反応を試すだなんて、そんなの・・・」
【春香】
「わたしは・・・」
【P】
「そんなの天海春香が可哀想だっ!!」
【春香】
「!!」
怒鳴っちまいました・・・。
春香さんは一度も声を荒げなかったのに。
感情に任せて、言葉をぶつけてしまうなんてひどいことをしました。
もっと優しく言う事も出来たはずだし、やよいちゃんの事は感謝してもしきれないくらいだってのに。
こんなのキャラじゃねーよ・・・。
冷静になれ、オレ。
もう春香さんの方、見れないですよ。
怒ってるか、呆れてるか。
泣いちゃってたら悪いな。
今すぐ、社長に電話してクビにしてもらっても、オレは恨まないですよ。
アイドルには、どんな時もアイドルでいてほしいですからね。
【春香】
「・・・・・・なさい」
【P】
「え?」
【春香】
「プロデューサーさん、ごめんなさい」
【P】
「あ、オレも・・・こちらこそすみませんでした」
これがAランクアイドルの真の姿なんですね。
【P】
「どうしてこんな事を?」
【春香】
「・・・」
こんなの普通じゃない。
同年代の女の子より遙かに落ち着いてて、先を見る目がある彼女のするような事じゃないのです。
まるで・・・。
そう、まるで子供の試し方。
【春香】
「アイドルって、芸能界にいる女の子って、家庭的には恵まれていない子が多いんです」
それは知りませんでした。
外見が整い過ぎてて、浮いてしまう事があるっていうのは聞いていましたが。
【春香】
「やよいちゃんもそうだけど、美希ちゃんも千早も・・・ある意味、伊織だってそう言えると思います」
【P】
「日本有数の財閥かなんかで、お嬢様だって聞いてますよ?」
【春香】
「経済的に恵まれていてもね。ウチの事務所に来る前は、友達と言える人が誰もいなかったらしいんです。本人はあの性格だから強がってますけどね」
たしかに伊織ちゃんはどちらかというと自分から嫌われるようなことを言ってしまうところがあります。
それでも家庭環境が180度違うやよいちゃんとは、仲良く話しているところをよく見ます。
【春香】
「こんなに良い事務所は他にないんです」
【P】
「え?」
【春香】
「かつて、大手芸能プロダクションで一プロデューサーだったある人は、ダンス・歌唱力・ルックス、どれもが超アイドル級の女の子を担当することになったらしいんです。彼はその女の子に、幸せになる方法はトップアイドルになるだけではないという事を理解させてしまった。退社したプロデューサーは小さなプロダクション社長として独立、女の子はアイドルにならずにそこの事務員になった・・・」
すぐに分かりました。
オレが知る限り、最も懐の深いまっくろけと、事務所のアイドルもかくやという美貌の事務員。
高木社長と小鳥さんのことです。
そこにどれだけの想いがあったのか。
どうしてあれだけ人間的魅力のある二人が独身なのか。
オレなんかには到底、分からない大人の生き方が、大人の恋があるんでしょう。
【P】
「そうだったんですか」
【春香】
「二人が理想としてきた事が少しずつ実ってきているのは分かりますよね? でも、こんな状態がいつまでも続くはずないんです」
【P】
「どういう事ですか?」
【春香】
「突出した人って妬まれるんです。何かが優秀過ぎると・・・」
芸能界は嫉妬のある世界です。
美希ちゃんも言ってました。
皆おんなじ、足並み揃えて皆で平凡が大好きなお国柄っていうのも関係しているかもしれません。
【春香】
「プロデューサーさんが思っている以上に、ウチの事務所を心良く思ってない人が多いんです。舞台裏やスタジオでは特にそれを感じ取れます」
【P】
「・・・」
【春香】
「特に美希ちゃんは他の事務所の子を何人も引退に追い込んでます。もちろん無意識に。まあ、勝手に諦める子の事をどうこう出来ないですけど、所属事務所にしたらたまったもんじゃないですよね」
【P】
「彼女を見たら、自分が敵わないって思うのは分かる気がしますよ・・・」
アイドルの魅力は直接、見ると凄まじいものがあるのです。
好きにならずにはいられない、とんでもないオーラ。
ファンではなく、ライバルだとしたら、ウチの事務所には脅威的な人材ばかりなのは確かですよ。
【春香】
「律子さんがアイドルを辞めて、プロデューサー業に専念するって言い出したのだって、美希ちゃんが事務所に来てからよ・・・」
独り言のようにつぶやく春香さん。
彼女と同期の律っちゃんPは、美希ちゃんを見るなりバックアップに回ったのか・・・。
春香さんは同僚で同期でライバルでもあるアイドルが、目の前でステージを降りるのを見たわけです。
たぶん律っちゃんPの判断は正しいと思います。
春香さんもそう思ってるんでしょう。
それでも複雑な気持ちだったと思います。
【春香】
「アイドルってなんなのかしら・・・」
アイドル=偶像。
宗教によっては偶像崇拝を禁じています。
それだけ魅力がある存在なんでしょう。
信ずべき神をないがしろにしかねないほど。
信教の自由が認められている国では、信じるものの根幹、生きていく指針、そういったものが揺らぎやすいのかもしれません。
人が映画や小説に影響されて、その人生に大きな変化を及ぼすように、アイドルは存在自体が人を夢中にさせるナニカを持っているような気がします。
【P】
「みんなの憧れかな・・・勇気と希望を与えてくれる存在とか・・・」
【春香】
「本当にそう思ってます?」
【P】
「そりゃ、まぁ・・・」
見抜かれたか。
【春香】
「一人の人間にどれだけの事ができます? どれだけの人を救えます? どれだけの人を幸せにできます?」
そんなの限界はあるに決まってる。
誰だって、両手を広げた範囲で精一杯やっていくしかない・・・。
【春香】
「プロデューサーさん」
【P】
「はい?」
【春香】
「私ね、今のお家に引っ越す前、武蔵ヶ丘にいたんです」
【P】
「武蔵ヶ丘市ですか?」
【春香】
「そう・・・ほら、中川プロデューサーが住んでる・・・」
【P】
「ああ」
某TV局で主にドキュメンタリー番組のプロデュースをしている中川さんは、アイドルプロデューサーのオレと多少、方向性は違うものの学ぶところがたくさんある大先輩なのです。
お嬢さんも武蔵ヶ丘市内の中学校を卒業してすぐに芸能界入りしています。
春香さんはぽつぽつと自分の事を話し始めました。
・・・
中学生時代の友達に変わった女の子がいた事。
その子がいつも誰かの為に生きようとしていて、正義の味方になれるって本気で信じていた事。
ある時、2人は町中で捨て猫を拾って飼ったものの、すぐにお小遣いではエサ代に限界が来た事。
次々に拾ったからだそうです。
春香さんはどうかしてると思ったらしいですが、彼女は自分を信じて疑わなかったんだとか。
ついには市議会に捨て猫を拾った場合における支援金の創設という協力まで取り付けた彼女が、春香さんにとって本当に正義の味方に見えたという事。
中学生から見れば、いや大人から見たって偉業を成し遂げた彼女はそれでも、全ての子を助けることが出来なかったと悔しがったそうです。
・・・
その後、春香さんは引っ越してしまい、だんだんと疎遠になってしまったそうです。
学生時代なんてそんなもんでしょう。
でも、春香さんは彼女の事をずっと忘れられなかったのです。
彼女みたいになりたかった。
その為にお金が欲しかったし、人を動かすことの出来る力が欲しかった。
高校生になった時、それを叶えられる道は芸能界だと思い至って・・・そして、今の彼女があるわけです。
やよいちゃんが困っていた時、律っちゃんがお金を渡したのに対して、春香さんが生き方を諭したのはまさにこれだったのです。
子猫が鳴いていても食べたらなくなってしまうエサをあげることはせず、エサの取り方を教えた・・・。
律っちゃんPも春香さんも、二人とも優しさは同じな気がします。
中学校時代のお友達も。
春香さんは自分なりの優しさを実行に移す時の信条を見つけたのでしょう。
【春香】
「やよいちゃんも美希ちゃんも、伊織にしたって、他の皆だって、この事務所に出会えて今があります。私は家庭的に皆よりも恵まれているかもしれません。でも分かるんです」
【P】
「(オレも事務所に拾ってもらったようなもんだからな・・・)」
【春香】
「だから、私はこの場所を守りたいんです。みんなを守りたい! プロデューサーさんも同じ道を来てくれるか、それが知りたくて・・・」
それで試したのか。
【P】
「そんなの決まってるよ。オレだって・・・」
【春香】
「あなたは危険だわ!」
【P】
「え?」
【春香】
「無意識でも、アイドルとは別の道がある。幸せになれる方法があるって示してしまった人によく似ているんです。アイドルに優しいから。女の子にあまりにも優しいから」
【P】
「・・・」
【春香】
「それは良いことだと思いますけど・・・それじゃ色々なところから標的になっている事務所は続かなくなってしまいます。アイドルがいてこその芸能プロダクションでしょ」
【P】
「ごめん・・・」
【春香】
「・・・」
こうなるのを知ってて雇ったんだとしたら、オレにどこまで求めてるんですか社長。
あなたが出来なかったことを、オレにやれと?
【P】
「そ、そんな先の事まで見ていたんですね、春香さんは」
【春香】
「・・・」
【P】
「オレ、もっとがんばりま・・・」
【春香】
「事務所のことだけじゃありません」
【P】
「?」
【春香】
「プロデューサーさんの先についても見てますよ」
【P】
「だから、もっと頑張って一流のプロデューサーに・・・」
【春香】
「誰を選ぶんですか? どっちを?」
【P】
「な、誰って」
【春香】
「プロデューサーさんはやよいちゃんをプロデュースしてくれていますが・・・本当は美希ちゃんの事を支えたいって思ってるんじゃないですか?」
【P】
「・・・」
【春香】
「言ってる意味、わかってるはずです」
【P】
「・・・オレはやよいちゃんの担当だから。少なくとも今は全力でプロデュースしたいって本気で思ってます」
【春香】
「今は、ね」
わかってますよ。
もう何度も考えてきたし、悩んでもきました。
答えは出せていません。
“全ての子を助けることはできない”
“全ての子と同時に幸せになんてなれない”
アイドルも、ネコも、オレも同じなんだ。
春香さんは体当たりでオレの人格や仕事への対応を試してきました。
たぶん、やよいちゃんを任せられるって、少しくらいは思ってくれたと思います。
それでも、この先、事務所は続いたとして、アイドルが普通の人に戻る時のことまでを言っているに違いありません。
その時、どうするか・・・。
【P】
「オレは・・・」
【春香】
「す〜〜〜、す〜〜〜〜」
寝てました。
あどけない寝顔は17才の女の子です。
誰もが認めるトップアイドル。
きっと生まれた時からダイヤの原石みたいだったんでしょう。
それでも、器量と才能だけでこなせる仕事じゃないのは確かです。
常人離れした努力の積み重ねが彼女をここまで磨き上げた。
酔っぱらって見せて、身体を張って年上の男を試して、それでもやよいちゃんの事を、みんなの居場所を守りたいって思う彼女も、寝ている時くらいは普通の女の子に戻るようです。
いや、普通の女の子でいてほしいです。
【P】
「・・・ありがとうね、春香さん」
・・・
外灯もない夜道をワンボックスで走って行きます。
芸能界だけじゃありません。
どこの業界も、誰の人生も、この暗い道のようにどこまで続くのか、先に何があるのかなんてわかりゃしないんですよ。
それなら、せめて暗闇を切り裂くハイビームになりたい。
光が見えたら、どこまでも、誰よりも力強く突っ走るこの娘達の道標になりたい。
『ぽよぽよ』がおそろしく上手い人が「ぽよマスター」と呼ばれるように、
剣の道を極めた人が「ソードマスター」と呼ばれるように、
アイドルを極めた彼女達が『アイドルマスター』と呼ばれるなら、オレはその隣にいたい!
そう、この暗い道を・・・。
って、ほんとに暗いな。
会話と考え事に集中してたせいで、どこを走ってるのかまったくわかりませぬ。
もはや都内とは思えない山道を走っております。
合ってるのか、道!?
誰かオレの道標になって下さい。
オネガイ。
13話に続く
2012/05/22 初版
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