中学校入学までの春休みの間、市立体育館へと通う事がかすみのそれからの日課となっていた。
目的はひとつ。
武蔵ヶ丘中学校の演劇部の練習を見るためだった。
この日も昼食を食べた後、市立体育館へと向かうため、中央公園へと来ていた。
芝生のある広場を抜け、野球グラウンドの横を通り、体育館の前まで来た時に噴水の前に座り込んでいる一人の少年、いや少女が目にとまった。
お昼時も過ぎてしまっているためか、普段ならベンチで食事をしている近所の会社のOLさんなども見当たらず、あたりは閑散としていた。
そんな荒涼とした雰囲気が、舞台衣装なのだろう男装をした少女を浮き立たせていた。
“演劇部の人だ!”
かすみの心臓が音を立てて動き出した。
しかし、人気のない公園に溶け込んでしまいそうなほど、存在感のない、儚げな印象があった。
いつも舞台の上で見せている凛とした姿はそこにはなく、どことなく気弱げな様子で噴水を眺めていた。
気が付けば、自然と近寄ってしまっていた。
「大丈夫ですか? すみません、あの・・・」
かすみは恐る恐る声をかけてみる。
しかし少女は振り返る様子はない。
いつも舞台を見ていた為、勝手に親しくなっていたつもりであったが、声をかけた後で自分が彼女の名前も知らなかったことに気が付いた。
かすみはとっさに、アリスという少女に舞台の上で呼ばれていた名前で呼びかけてしまった。
「えっと、マコトさん?」
かすみの発した「マコト」という一言に反応したのか、少女はびっくりしたように振り返った。
「・・・?」
舞台で見るよりもはるかに端正な顔立ちで、男装も似合っていたが、どこか顔色が悪く、目に生気もなかった。
「具合が悪いんですか?」
「・・・あっ、ごめんなさい。えっと、あなたは・・・」
「栗原かすみです。前にここで練習していたのを見た事があって。そのバレーボールチームの手伝いみたいな事していたんで・・・」
かすみはしどろもどろになりながらも早口で答える。
考えてみれば相手はまったく自分の事を知らないのである。
何という大胆な事をしてしまったのだろう。
自分から声をかけてしまった。
かすみの心臓は爆発しそうだった。
「そっか、それで。私は御神麗香、よろしくね」
「御神さん・・・御神センパイの方がいいのかな?」
かすみは緊張で目眩を起こしそうになりながらも口の中でぶつぶつ呟いた。
「栗原さんは来月入学?」
「そうです。この四月から、先輩と同じ・・・でいいんですよね。ムサ中に入学します」
「そうなんだ、じゃあもうすぐ後輩だね」
麗香が微笑んだ。
たったそれだけのかすかな微笑に、かすみはあっと言う間にリラックスさせられた。
「はい。ところで、本当に大丈夫ですか? どこか具合でも?」
「・・・ごめんね、心配かけちゃって。気分がすぐれないだけよ。明日が公演本番で、ちょっと緊張しちゃって」
「明日が本番だったんですか?」
「・・・そう。今、体育館で本番用のセッティングが行われててしばらくの間休憩中なの。あ、今日は体育館には入れないわよ。明日の準備で椅子とか並べちゃってあるから、一般の人は入場禁止になっちゃってるのよ」
「・・・そうなんですか。それで体育館に向かう人も少ないんですね。残念です」
「いつも見に来てくれてたんだ、栗原さん」
「はい。本当はいけないんでしょうけど、あそこで練習をしていた日にはほとんど見させてもらっていました。その・・・バレーの練習がない日もですけど・・・」
「そっか」
麗香がベンチに座ったまま、再び、虚ろな視線を噴水に向けた。
ベンチの横に立ったままのかすみは手持ちぶさたで、何をしていいかわからなかったが、とにかく元気づけたいと思い、言葉を探す。
「先輩のセリフ、格好良くって素敵です!」
精一杯明るく投げかけたかすみだが、その言葉に麗香はさらに顔を曇らせてしまった。
“格好良い”
それは台本を創った人の手柄だ。
自分自身はその格好の良さを表現しきれていない。
彼女もそう感じたからこそ無意識に「セリフ」がと言ったのだろう。
自分の演技に自信のない麗香はそんな風に、マイナスへマイナスへと自分を追い込んでしまう。
「・・・」
「緊張とれません?」
思いつめたような表情で、前を見たままの麗香は話し出した。
「明日はたくさんの人が来るわ」
「はい」
「学校の舞台でもあがってしまうというのに都知事さんや市長さん、学校の関係者の方もたくさんいらっしゃるというし・・・ケーブルテレビのカメラまで」
──────私はもともと演劇には向いていなかったのかもしれない・・・。
容姿だけを買われて主役に抜擢されたという思いをぬぐえない麗香と、なんとか元気づけたいと思いつつも言葉が見つからないかすみ。
重すぎる沈黙が二人の間に流れた。
たしかに大舞台だ。
御神先輩はすごいプレッシャーに押しつぶされそうなのだろう。
しかし、練習とはいえ、その舞台を見て自分が感動したのは確かなのだ。
その思いを伝えたい。
御神先輩の役に立ちたい。
その思いが、気持ちが、かすみに言葉を与えた。
「先輩、それは関係ナシです!」
かすみのよく通る声に、麗香は思わず横に立っているかすみを見上げた。
「・・・」
「都知事さんや偉い人達と演劇をするんじゃないでしょ? 先輩は演劇部の人達と演劇をするんですよ」
「・・・栗原さん」
「私も・・・、私もそんな先輩の姿を見て演劇部に入りたい。この舞台に立ってみたい。そう思ったんです。私迷っていました。でも、先輩の舞台を見て演劇部に飛び込んでいける勇気をもらえた気がします」
「栗原さん」
「私にとってムサ中入学も演劇部への入部も不安なことだらけで・・・。この決断は、とても大きな壁だったんです。越えることの出来ないくらい・・・。でも、先輩の演技は私に勇気をくれました! 本当なんです」
「・・・」
そこまで言ってもじもじしているかすみを見て、御神は心が軽くなっていくのを感じた。
──────自分の演技は人の心を動かすことが出来たんだ。
きっと彼女も、私にここまで言うのに勇気が必要だったに違いない。
うつむいているかすみを見て、麗香は力強く言った。
「壁があったら飛べばいい。越えるための翼を持てばいい」
御神は舞台の上でアリスにそうしたように、立ち上がってしっかりとかすみの肩に手を置いた。
“先輩の目に生気が戻った・・・”
それはかすみがいつも舞台で目にしていたマコトの顔だった。
「マコトさん・・・」
「もし・・・もし壁があるのなら、僕は翼を持とう。その壁を越えるための。君が壁の前で悩むときは、ボクがその壁を飛び越えて、君に手を差し伸べよう」
かすみには御神麗香の背後に舞台セットが見えるようだった。
彼女の肩に手を置き、もう一方の腕を大きく広げてみせるその仕草は演劇の芝居がかった大げさなものだったが、不自然さが微塵も感じられなかった。
「・・・ありがとう栗原さん。忘れていたよ。僕が行かなきゃ、アリスは笑顔を取り戻せないんだ」
「はい!」
2人は微笑み合った。
「時間は大丈夫ですか?」
「休憩時間は・・・15分前に終わってる」
「じゃ、行かないと、マコトさん」
「あぁ、そうだね」
ドキドキしていた。
胸が苦しかった。
体育館へと走っていく麗香の後ろ姿を見つめながら、その小さくなっていく後ろ姿に思わずため息をついてしまう。
まったく信じられなかった。
憧れの役の人と間近で話が出来たことが、そして来月から同じ学校で学べるということが。
そして何より、まるで舞台のように肩に手を置かれた事が。
半ば放心している彼女を春の日差しがあたたかく包み、何事もなかったかのように、噴水は空へと水を打ち上げ続けていた。
(5)に続く
2012/01/17 初版
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