「あ、タケルくんおはよう」
眠くてダルくて、学校に行きたくない日和の月曜日の朝。
隣に住んでいる女の子に声を掛けられた。
澄んだ鈴のような声は聞いただけで振り返らずにはいられない魅力を持っている。
彼女は御前 静(みまえ・しずか)ちゃん。
建て売り住宅のウチとは比較にならない豪邸に住んでいるお嬢様だ。
これから登校なんだろう。
黒塗りのリムジンの横で小さく手を振っている。
輝くような笑顔が眩しい。
長い黒髪を揺らせてにっこりされると、ついこちらも頬が緩んでしまう。
「山本様、おはようございます。良いお天気になりましたなあ」
「やあ、おはよう。静ちゃん、蘇我さん」
運転手の蘇我さんも挨拶してくれた。
彼は専属運転手で、執事やお付きの者は別にいると聞いたことがある。
グレーのダークスーツにWilliams Grand Prix Engineeringのロゴが光るドライバーズグローブを付けて微笑んでいるあたり、タダモノではないだろう。
想像して欲しい。
ロマンスグレーの紳士がダークスーツに身を包んで、ロスマンズカラーの手袋をしているところを・・・。
F1ファンなんだろうけど、リアウィングにデカデカとCanonがスポンサードしていた時代のウィリアムズチームがお気に入りらしかった。
蘇我さんはドアを開けて静ちゃんが座ったことを確認すると、オレに一礼してからリムジンに乗り込み、ゆっくり発車させた。
やはり、これからミッション系の超お嬢様学院に行くらしい。
通り過ぎるとき、静ちゃんが後部座席からまた手を振ってくれた。
まったく聞こえないのだが、口の動きで何を言ってくれたのか分かった。
「いってらっしゃい」
自分も“いってらっしゃい”な朝なのに、そう言ってくれる幼馴染みの存在が嬉しかった。
遠ざかるリムジンに手を振り、オレも歩き始めた。
オレは山本タケル。
徒歩で公立校に通う平凡な高校生。
どれぐらい平凡かというと、成績並、運動神経並、どこにでもいるような顔と3拍子揃っている。
ちなみに部活はPM研究会だ。
ちょっとカッコイイ名前だけど、部員は3人しかいない。
オレを含めて・・・。
プリント・マシン研究会っていうのは、グーテンベルクが発明した活版印刷機から始まり、富士ゼ○ックスの複合機まで、とりあえず印刷できる機械については全て研究しようじゃないかというよく分からない部活だったりする。
部長だけが大乗り気で毎日、家電量販店からパンフレットをもらってきてはブツブツ言いながら分析している3年の先輩。
もう1人、3年の先輩がいるんだけど、ただ読書がしたかったというだけで入った女子。
まあ、たしかにPM研究会なら放課後ずっと本を読んでいられる。
部長は文句を言わない人だ。
「けっこうけっこう! 印刷機を通って生み出されたモノを読むのは研究の第一歩さ」
たぶんアホなんだと思う。
オレは例の読書女子に誘われて入部した。
いや、まだ部活動として認可されてないから入会か。
部活になるには最低5人は必要らしい。
2年になったばかりの1学期、わざわざ昼休みに教室まで来て
「山本くん、入らない?」
とだけ言われた。
オレも周りもびっくりしたんだけど、どこにも入部してなかったのでそのまま入ったという経緯がある。
たぶん、あの先輩のことだから、後輩で帰宅部の生徒を調べたんだろうなぁ。
名前まで知っているのには、本当に驚かされたもんだ。
珍しく日曜の朝に早起きした時、せっかくだから陽に当たるか、とおじいちゃんのような事を考えながら表に出たら、これからテニスをしに行くという静ちゃんと会った事がある。
久しぶりに世間話をしている時に、たまたま思い出して
「この前、部活に入ったんだ」
と言ったら、静ちゃんは自分のことみたいに喜んでくれたっけ。
「それはとても良いことよ」
「そ、そうかな」
「だってタケルくんの世界が広がるじゃない? どんな方々がいらっしゃるのかしら。ねぇ、考えるだけでワクワクしちゃうね」
「あ、うん・・・」
最後までPM研究会とは言えなかった。
彼女は本当に優しい人で、浮世離れしたスーパーお嬢様だった。
いわゆる幼馴染みなんだけど、小さい頃に少し遊んだだけで、一緒に過ごした時間はそんなに長くなかった。
静ちゃんは小さな頃から習い事が多くて、習いたてのピアノやヴァイオリンをたまに聴かせてくれた。
隣の家に住んでいるというだけで、住む世界がまったく違うことはなんとなく分かっていた気がする。
なんせ温室育ちって言葉がよく似合う上に、幼稚園から高校までミッション系の有名私立に通っている。
お父さんは豪快で頼もしい俳優ばりのルックス。
お母さんは静ちゃんに輪をかけた優しさで、いつも笑顔を絶やさない綺麗な人。
もう両親からして違うのだ。
オレは幼稚園から小・中・高とずっと公立校に通ってるスーパー庶民。
両親は・・・サザヱさんとこの家族と、ビチまる子ちゃんとこの家族を足して2で割ったモンを想像してくれればいい。
遊びに行っても、
「今、○○のお稽古をしているので待っててね」
って言われて、広いリビングで待ってる時間の方が長かった気がする。
大きくなってどんどん綺麗になる静ちゃんを見る度に、どんどんオレと住む世界が違っていくような気になったもんだ。
物心つく頃には、朝、玄関先で会って「おはよう」と言われるだけで嬉しいという存在になっていた。
好きとか嫌いとかじゃなくて、ちょっと話すだけで朗らかな気分になれる人ってのは確かに存在する。
オレの場合、それはお隣さんであり、静ちゃんだった。
なんたって、幼稚園の頃から車での送り迎えだから、バスや電車での通学中に「あ、同じ車両だったんだね」的イベントも一切なかったんだ。
芽生えるものなんか他に何もなかった。
(2)に続く
2012/02/21 初版
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