体育の授業に遅れることもなく、午後の授業を2コマ消化したオレはクラスメート達に挨拶して部室棟に来ていた。
そうそう、小野は“ミイラ男になるかと思った”と思ったくらいに、サンドバッグの代用品を務めたんだそうだ。
「いや、でも、あれはあれで良かった! 別世界が拓けてきた」
だそうで、小野の世界も広がっているようだ。
オレとはまったく別の方向性で。
部活は休みだった。
部長の張り紙がしてあって、パソコンの春モデルが並ぶこの時期、プリンターや複合機も新型が多くリリースされるからパンフを片っ端からもらってこないといけない。
そして、実際に触れられる良い機会なので、部活の時間内に帰ってはこれないというものだった。
<ちなみにこの張り紙はMZ-1P08ドットインパクトプリンタを使って刷ったものだよ。感熱紙が使えてワープロ本体にくっついているサーマルプリンタ全盛期に、複写用紙にまで印字できるほぼ唯一のプリンターが出てるっていうところが心憎いと思わないか? 当時は文字にアンチエイリアスをかける事は出来なかったから、モロにドットが出てるカクカクの文字だよ。もうほとんど電光掲示板だよね。このプリンタを見た後で、最新のラスターイメージプロセッサを実装しているハイエンド機を眺める幸福感は誰にでも想像してもらえると思うんだ>
と最後の最後にうんちくが書かれているあたり、部長らしい。
まったく想像できない幸福感だけど・・・。
もちろん、こうやって部長がいないところで、部活はやっても構わないし、部室の鍵も職員室に行けば借りることが出来る。
しかし、部長がいない時は部活はお休みというのが暗黙の了解だった。
部長以外は完全な暇つぶしに近い。
だから、早めに家へ帰ってしまおうというわけだ。
「あら、今日はお休みね」
階段を上がってきた藤原先輩に声をかけられた。
オレはすでに部室棟へ来てすぐに先輩の弁当箱を洗って、ナフキンで包み、元の姿を再現させていた。
お礼を言って、返そうとしたら先輩が口を開いた。
「一緒に帰らない? 私、今日は本町に用事があるの。山本くんの家の方よね」
「あ、はい」
このあたりは区画整備されて再開発された新市街の新町と、古くからあるごちゃごちゃした町並みの旧市街である本町が、学校を境に南北に広がっている。
部長も先輩も新町に住んでいるので、部活が終わると下駄箱で分かれてそれっきり。
いつもはそんな感じだった。
下駄箱で靴に履き替えて、一緒に校門まで歩いていると、何度か先輩が声をかけられていた。
「藤原〜、なになに? デート?」
「部活の買い出しよ」
「咲ー! 抜け駆け!?」
「部活の買い出し」
3年の女子から次々に詮索されるのを、“買い出し”の一言で返していた。
本町の方へ用事があって云々よりも説明がラクだからだろう。
オレはオレで、
「あのヤロー・・・藤原先輩と一緒に下校だと!?」
「くそぅ、もっと暗ければ闇討ちに・・・」
などと、物騒な会話が遠くから聞こえてきた。
あとで聞いたのだが、部長はパンフを読みながら歩いているので、こういう事はないんだそうだ。
別に一緒に帰ると言っても、藤原先輩はおとなしい人なので黙って並んで歩くだけなんだが・・・。
この日は違っていた。
いつも何のゲームをしているのかとか、自分は最近、ハワード・フィリップ・ラヴクラフトの小説を読み始めたとか楽しそうに話しかけてくる。
もっとも、いつも澄ました顔をしているので、長い時間、一緒に部活をしていなければ、何となく楽しそうだなぁという雰囲気には気付けないかもしれない。
会話が止んだ時、ほとんどオレから話しかけてなかった事に気が付いたので、なんとなく聞いてみた。
「ずいぶん、話しかけられましたね」
「え? 帰るときの事?」
「はい」
「ああ、山本くんが私に取られちゃうんじゃないかって、皆、心配だったんじゃない」
「そうですか・・・」
心配してたんじゃ仕方な・・・
「ええっ!?」
「どうしたの?」
「と、とられちゃうって・・・」
「身長の事だけじゃないのね、気が付いてないのは」
先輩が目を細めて笑った。
いつもこういう顔だったら、今よりもっと人気があるんじゃないかって思った。
「背だけじゃないよ? 顔も身体も引き締まって、腕だって太いじゃない。背中も広くて頼もしい・・・」
「・・・」
「あれだけ食べていれば当然ね」
オレ、何も運動してないぞ?
それで食べまくってたら、ただデブになるだけじゃないのか?
ひょっとして体育の授業で充分に筋力が付くのかも。
「私のクラスでも話題になってる」
「オ、オレがですか?」
恐る恐る聞いてみると、先輩がまたおかしそうに笑った。
自分ではまったく知らない情報が明らかになる。
それがこんなにドキドキする事だとは思わなかった。
心なしか、気分が落ち着かない。
ゴムの厚い靴で砂利の上を歩くような、雑音に包まれているような気さえする。
まるで、タイヤを転がしているような・・・。
「3年生になると、格好良い先輩に憧れるのは終わりなの。自分たちが最高学年だからね。同い年の男の子は子供っぽく見えるだけって女の子は多いから・・・それで可愛い後輩に目が行っちゃうのね」
「それは知りませんでした・・・」
本当にそんなこと知らなかった。
つーか、モテたことなんか生まれてこの方、一度もない。
告白だってされたことはない。
あんなもんはドラマやマンガの中だけで起きる超常現象だと思っている。
バレンタインデーなんて静ちゃんとおふくろがくれる超義理チョコしかもらったことないし。
そう考えるとなんか担がれてる気もしてきた。
落ち着かない気分はずっと続いている。
ゴロゴロという騒音に付きまとわれているような歩きづらいような感覚。
まるで、静かなエンジン音のような・・・。
「信じてないでしょ」
「いや、まあ・・・はい・・・」
「後輩に可愛い女子がいるとするでしょ?」
「はい」
「その子は年下で可愛いのに、スタイルも良くて、声も可愛くてっていう子だったら山本くんはどう思う?」
思わず、静ちゃんを思い描いていた。
年下じゃないけど、まさにそんな感じだと思う。
「そりゃ、理想的ですね」
「でしょ? ふふ、そういうこと。可愛い男の子なのに、いざという時には守ってくれそうな体格で、声もソフトでよく響いて、ちょっと鈍感なの。お姉さん達は夢中になっちゃうわけ」
「ま、まさか・・・ハハ」
「今からでも“PM研究会は入部希望者を新規募集しています”ってプラカードを山本くんが持って立ってたら、3年生女子ですぐ部に昇格するかもね」
「ありえないですって。あ、そうだ! お弁当ありがとうございました」
藤原先輩にからかわれてるんだろうとは思っていたが、自分の家が近くなってきたので渡しそびれていた弁当箱を差し出した。
「洗ってくれたんだ。ありがとう」
「いえいえいえ、こちらこそご馳走様でした。また調理実習があるのにお弁当を持って来ちゃったらいつでも遠慮なく」
「ふふ、そうね。良かったら明日も・・・」
先輩が何か言いかけた時、急に声を掛けられた。
「タケルくんっ!」
うお!?
気が付けば、そこにリムジンがあって、後部座席から静ちゃんが顔を出していた。
心配事でもありそうな、怪訝な顔をしているが、やっぱり整っている。
「く、車の中からごめんなさい。あ、蘇我さん、もう近いので私はここで降ります。ありがとう」
「かしこまりました」
たしかにウチが近いんだから、その隣にある静ちゃんの家はすぐそこだ。
運転手の蘇我さんは、路肩に停めて静ちゃんの乗っている席のドアを開けようとしたらしいが、彼女はそれを留めていそいそと自分で降りた。
「こ、こんにちは・・・」
「やあ、静ちゃん」
「あら、可愛い人・・・」
車を降りて、オレ達のそばに来た静ちゃんが深くお辞儀をした。
リムジンはゆっくりと御前邸の門に吸い込まれていく。
「静ちゃんも今、帰りなんだね。ぜんぜん気付かなかったよ」
「リムジンならだいぶ前から私達の後ろに・・・」
「え・・・」
静ちゃんにしては珍しく遮るように言った。
「わ、私は御前 静です。タケルくんとは“ずっと”小さい頃から隣に住んでいます」
「ふふ、それはご丁寧に」
「あの・・・」
「藤原 咲です。山本くんと同じ部活に入ってます」
明らかに年下と分かる静ちゃんに、藤原先輩が敬語で返した。
初対面だし、同じ学校の先輩後輩ってわけでもないから当然か。
こういうところでヘンに年配である事を持ち出さないのも大人な対応だ。
やはり先輩を見ていると勉強になる。
オレもしっかりしなければ。
「その制服、聖母マリア女子ね」
「は、はい・・・」
そういやそんな名前の学校だった。
近所でもなければ学区も違うから、あまりよく覚えてなかった。
あそこの制服は女子の間では人気があり、制服目当てで受験する子もいるらしい。
あらかたエスカレーター組が学籍を確保してしまうので、受験組は恐ろしいほどの倍率になると聞いたこともある。
2人とも真剣な顔でお互いを見つめ合っている。
顔立ちが非常によろしい女の子同士が向き合うってのは絵になるもんだ。
ちょっとにらみ合っているような微妙な雰囲気ではあるけど、2人とも笑顔を絶やしていないので気のせいだろう。
誰でも初対面は緊張するしな。
「山本くん、それじゃまた“明日”ね」
「へ? あ、ああ、はい。おつかれさまでした」
「ごきげんよう・・・」
静ちゃんも挨拶した。
去り際に藤原先輩が顔を寄せてきた。
シャンプーの香りがしてくるほど近い。
な、なんだ?
内緒話か?
「こんなに可愛いお嬢様が近くにいたなんて知らなかったなぁ」
「ガ、ガッコが違いますからね、ハハ」
先輩はそのまま本町の開けている方へと歩いて行った。
その方向へ直進すれば古い商店街と市役所などの行政施設が集まっている。
何か書類でももらうのかもしれない。
「タケルくん!」
「ん?」
先輩が去っていった方をぼんやり眺めていたら、静ちゃんに呼ばれた。
うお!?
なんか険しい顔をしてるぞ。
とは言え、顔が可愛すぎてぜんぜん怖くないんだけど。
「綺麗な人ね」
「そうだね。ウチのクラスでも注目されてるよ」
「そう・・・」
今度はしょんぼりしてるような?
なんだ?
心配事でもあるんだろうか。
「お弁当・・・」
「え?」
「ううん、何でもない。今日は何を食べたの?」
「えーっとね・・・」
今日、食べたものを片っ端から挙げていくと、静ちゃんが目を丸くした。
「そんなに食べたのね。おば様のお弁当だけじゃ足りないんだ」
「ハハ、辞書よりブ厚い弁当箱なんだけどね」
鈴でも転がすような心地よい声で笑ったと思ったら、深刻な顔をしてつぶやきだす。
「・・・あの綺麗な方」
「ん? 藤原先輩?」
「ご自分で召し上がる量じゃない・・・」
「ほえ?」
「ううん、何でもないの」
にこ〜〜〜っとしてこっちを見る静ちゃん。
眩しい笑顔ってのはこういうのを言うんだろうなぁ。
それまでに話していたことをあらかた忘れて見とれてしまう。
普段からクールな藤原先輩が時々見せるささやかな微笑もいいけど、やっぱり静ちゃんの笑顔は破壊力が凄まじい。
「タケルくん、今度ね、私が通っている学校の名前が変わるらしいの」
「ありゃ」
思い出したように静ちゃんが言った。
私立ってのは株式会社みたいなもんだから、理事長の交代でそのまま経営方針や校名が変わることもあるんだろう。
たいていは学校の歴史や知名度を優先して、変更しないらしいが。
真新しい学校を好む生徒はいくらでもいる。
その一方で、由緒ある学校が良いという保護者もたくさんいるから、おいそれとブランドイメージを払拭したくないって事らしい。
「変わったら教えてよ」
「うん・・・」
なんか元気がない。
不安なんだろうか?
「名前が変わったって、学校自体が変わるわけじゃないから大丈夫だよ。いきなり共学になるとかもありえないし」
「うん・・・」
「そんなことしたら、PTAが黙ってないから」
「ありがとう・・・」
俯いたまま、小さい声でお礼を言う静ちゃん。
鞄を右手に持ったり、左手に持ったり、両手で持って指を絡ませたりほどいたり・・・。
どうしたんだろう?
ふっ・・・。
分かった。
いくら上級生に鈍感と言われている(らしい)オレにだってこれぐらいは分かる。
ここはさりげなく、彼女の名誉を守ろうではないか。
く〜〜〜、カッコイイぜ、オレ。
「静ちゃん」
「え? はいっ」
「早くお家に戻った方がいいよ。蘇我さんが心配するから」
「あ、うん・・・」
途中で漏れちゃったら大変だからね。
まあ、かく言うオレもギリギリで駆け込んだことは2度や3度ではない。
もっともオレの場合には食い過ぎでオーバーキャパシティになった挙げ句のンコだが。
「タケルくんは明日、何時くらいに学校へ向かうの?」
「ん? そうだなあ・・・7時半くらいかな」
「朝練とかないのね」
「うん」
ないない。
あるわけない。
PM研究会に朝練があったら、オレは抜けるよ。
何が悲しゅうて、早起きしてP乙Pをやりに部室へ籠もらなければならないんだ。
「あ、あの・・・」
ヤバイ!
静ちゃんの顔が真っ赤じゃん!!
限界?
ってか漏れちゃった!?
「さっきの人の事、タケルくんは・・・」
「ん? ああ、なんだそんな事か」
あからさまにほっとした顔をしているだろうオレを不思議そうに見つめる静ちゃん。
う〜ん、正統派アイドルでもこんなに可愛くないんじゃないか。
いやいやいや、ここで安心して話しが長引いたら、今度は本当にダムが決壊するかもしれないゼ!
きっと、1秒でも早く駆け込みたいだろうに、“ヤベー、超漏れそう”なんてところを悟らせないように話題を振ってくるとは・・・。
なんて健気!
なんて気丈!
か、感動だ!!
「1年先輩とは思えないほど、大人でね。見習おうと思ってるんだ」
「それだけ?」
「ん?」
「な、なんでもないの。ごめんなさい、お話し中にお邪魔しちゃって」
「いいんだよ、もう帰ろうとしてたんだから。ほら、急いでお家へ」
「あ、うん・・・ごきげんようタケルくん」
やっと、静ちゃんがウチの隣に向かって歩き出す。
もう、ウチの玄関先まで来ていたので、大事には至らないだろう。
ふ〜〜〜。
世間知らずなお嬢様のピンチを救ってしまったようだな。
しずしずと名前の通りに何事もなく歩く姿はさすがの一言。
オレなら血相変えて、トイレまでダッシュだよ。
かくして、正義の味方はまた一つ、世界の平和を守ったのである。
なんつって。
(5)に続く
2012/03/20 初版
|