妙な夢を連続で見たせいか、起きてもなんとなく眠かった。
いや、実際、何度も目が覚めたので、ぐっすり眠れてないのだろう。
ひどい朝だった。
さらにひどいことに、オレは登校前に静ちゃんにも蘇我さんにも会えなかった。
遅刻寸前だったオレが早起きをするようになったのは、玄関先で2人と挨拶するのが目的だったのだが、こういう日もあるだろうと諦めるしかない。
「おはよう」
たった一言を交わすだけで、あんなにも気分の良い一日をスタート出来ていたのか。
そう思えるほど、つまらない通学路だった。
なんだかんだ言って、30分はある。
高校になると通学範囲が広がるので、自転車での通学が可能になる学校がほとんどだ。
もちろんオレも自転車は持っているし、それで学校にも行ける。
問題は保管場所だ。
ウチには一応ガレージがあって、ちっこい車が停まっている。
正確にはデカイ車が入らないほどガレージが狭い。
道路側に、つまり車の前には、使用頻度の高い母親の自転車が停められているのだが、もう1台を横に並べて置くと車道にはみ出てしまうのだ。
ちなみに、縦に並べて置くと家のドアに差し掛かる。
そういうわけで、ロクに乗らないオレの自転車は車の後ろに置いてある。
ガレージの一番奥。
ここから、車に傷を付けないよう出すのは至難の業で、だいたい10分くらいはかかる。
自転車を持ち上げて、車の上をかすめながらカニ歩きで道路に出る苦労を想像してもらいたい。
往路の1/3を進める時間がかかり、その労力がハンパじゃないことから、ちょっと早起きして歩いた方がいいという結論に至っている。
なぜなら、帰ってきて、またガレージの一番奥まで自転車を担いで元の場所に置くという苦行が待っているからだ。
ぼんやり歩いていると自転車に乗った生徒がすいすい追い抜いて行った。
ちょっと羨ましい気もする。
校門が見えてくる頃には、あちこちから姿を現した生徒が次々に吸い込まれていくように登校していった。
見知った顔もあって、たまに手を挙げたりしていると、後ろからゴロゴロとタイヤを鳴らす音が聞こえてきた。
エンジンを切った状態で滑るように滑走してくる。
重量級のリムジンで、慣性に従って進んできたようだが、見る限りではAT車っぽい。
エンジンを切ってしまったら、油圧ポンプも働かないのでブレーキが効かないのでは?
そんな事を思っていると、案の定、サイドブレーキでも引いたのか、後輪をわずかにスリップさせながら停車した。
オレの前で。
運転席から蘇我さんが降りてきた。
「山本様、おはようございます」
「あれ、蘇我さん? なんでココに? あ、おはようございます」
周囲の生徒も何事かとこちらを見ている。
間近でリムジンを見たのは初めてだ、などというひそひそ声も聞こえてきた。
オレも別の意味でこのリムジンを見たのは初めてだった。
いつも静ちゃんが登校に使っているリムジンとは若干、違う車体だったからだ。
蘇我さんが後部座席を開けると、静ちゃんが降りてきた。
後部座席でごそごそやっていたようだけど、大丈夫だろうか?
「タケルくん、おはよう」
あ〜もう学校に着いちまった・・・みたいなどんよりとした空気が雲散霧消する。
女子までが眩しそうに見ていて、男子に至っては「おお〜〜〜」などと感嘆の声を上げていた。
気持ちはよく分かる。
朝日を浴びて微笑む静ちゃんは本当にキラキラとしているように見える。
後ろには執事然とした蘇我さんがうやうやしくかしこまり、さらに背後にはリムジン。
ロールスロイスのファンタムVIほどではないとは言え、リンカーン・コンチネンタルは庶民を十分に唸らせ、威圧するような迫力だ。
「お、おはよう・・・」
「どうしたの?」
「ん?」
「なんか眩しそうよ?」
そりゃね、あーたね、静ちゃんのキラキラが眩しいんですYO!
「い、いやぁ・・・静ちゃんに挨拶されると途端に爽やかな朝になるな〜なんて」
「うふふ、ありがとう♪」
溢れんばかりの笑顔を振りまく静ちゃんに、また周囲から歓声や見惚れまくっているであろうため息が漏れる。
すでに校門の前には人だかりが出来ていた。
もっとも遠巻きではあるけれど。
正直、恥ずかしい。
異世界から来たお姫様が公立校に初めて降り立ったような雰囲気なんだから、もうちょっと人目の少ないところで呼び止めてほしかった。
本人は全然、気にする風でもなく、オレにだけ話しかけているのだが。
そうだ・・・そもそも、何でここに来たんだろう?
「し・・・静ちゃん、なんでここに?」
蘇我さんにしたのと同じ質問をした。
静ちゃんはにこ〜〜〜〜っとしながら、包みを胸の前に出す。
「はい、お弁当」
「へ? え? えええええええええっ!?」
「おばさまのお弁当だけじゃ足りないって聞いたから・・・」
おおおおおおおおおおっ!
周囲の男子生徒から一際、大きな歓声が上がった。
こんなんギャルゲーでしか見たことない光景だぜっ! と妙な盛り上がり方をしている奴までいた。
納得だ・・・。
オレもギャルゲーでしか見たことがないイベントだ。
「ちょっと時間がかかってしまって、タケルくんが登校する時間に間に合わなかったの」
「そ、そ、そうなんだ」
自分でも面白いほど声がひっくり返っていた。
いつの間にか直立不動でかしこまっていたオレの手を取って、弁当が入っているらしい可愛らしい包み(うさちゃんプリントだ)を持たせてくれた。
「あの・・・ご迷惑だったかしら・・・」
それまで、太陽系の中心から地上まで飛んで来ちゃったナノ太陽みたいに輝いていた静ちゃんの表情が急に曇った。
ちょっと頬を染めてモジモジしている。
ご迷惑だなんて!
ないない!
まったくない、そんなことない、ぜんぜんない!
つーか、むしろ・・・
「すごく嬉しいよ、静ちゃん」
「本当っ!?」
「ああ、もちろん」
なんたって、弁当を5個くらい持ってきたいくらいなんだから。
それに距離さえ感じていたお嬢様だけど、こんなに可愛い幼なじみが作ってくれたお弁当が嬉しくないはずがない!
トドメに後ろから息を弾ませて走ってきて、手渡してくれるシチュエーションみたいなもんじゃないか!!
か、感動だ!
実際にはゴツいリムジンが追いかけてきたんだけど、それはそれ。
「良かった♪ 受け取ってくれなかったらどうしようかと思ってたの」
そうだったの〜?
おじさんはもうメロメロだお♪
い、いかん。
小野のアホが感染した。
「そんな事するはずないじゃないか。本当に嬉しいよ。ありがとう」
「うふふ、お口に合いますように」
オレを見ながら、両手を組んでお祈りするような恰好をする静ちゃん。
うあっ!
ちょっと待ってくれい!
錨でもないと空に飛んでっちゃいそうな幸せ気分だぜ。
中身がデッドリーな毒薬だって、完食しちゃうんだぜ。
断言しよう。
オレは今、この瞬間なら死んでもいいと思った。
なんならこの場で地縛霊になってもいいぜ?
爆弾抱えて自爆してもいいんだぜ?
500ポンド爆弾だって、セメテックスだって、テルミットだっていいん・・・。
いや、そんなことはどうでもいいんだけど。
「それじゃ、タケルくん。私もう行くね」
「あ、ああ・・・どうもありがとう」
「あ・・・」
静ちゃんが何かに気付いたのか、すぐ近くに寄り添った。
ん?
ネクタイ?
「曲がってるよ」
おおおおおおおおおおおおおおおおっ!
また歓声が上がる。
血涙流しそうな形相の奴までいた。
新妻か! 新妻か! と叫びながら、隣の男子の首を絞めている奴もいた。
いかん、このままでは死者が出てしまう。
「はい、これで大丈夫」
「あ、ありがとう」
「ちゃんとしてると恰好いいんだから・・・あ、でも・・・」
「?」
「あんまり恰好良くなっちゃうと・・・私、心配かも・・・」
「へ?」
だめだ・・・もう頭の中が真っ白だ。
静ちゃんがこんなに近くにいて・・・。
こちらをじ〜〜〜〜と見つめながらモジモジしてて・・・。
女の子の髪ってこんなに良い香りがするんだなぁ〜。
昨日も藤原先輩に近寄られたけど、静ちゃんはもっと近いっていうか、ぴったりくっついてるというか・・・。
「コホンっ!」
いつの間にか近くまで来ていた蘇我さんが咳払いした。
「ぬおっ!」
「きゃっ!」
「失礼致します、お嬢様。そろそろお時間の方が・・・」
「あ・・・そ、そうね。ありがとう、蘇我さん」
静ちゃんが慌てたように時計を見る。
オレも思い出した。
まだ登校してないんだった。
「お嬢様、これを・・・」
「?」
静ちゃんは、蘇我さんが差し出した耳栓とヘルメットを受け取った。
察しの良い彼女は「付けるの?」などとは聞かず、黙ってレース用と思われるイヤーウィスパーを耳に入れる。
ヘルメットも・・・おお! あのヘルメットは!
黄色地にブラジル国旗を思わせる緑のライン。
正面にはデカデカとMarlboroのステッカー。
捨てバイザーにはHONDAの文字とエンブレム。
年間16戦しかない時代に、プロストと15勝を挙げたホンダ・マルボロ・マクラーレンでアイルトン・セナが愛用していたヘルメットですよ。
古っ!
そうか・・・蘇我さんはウィリアムズ贔屓ってわけじゃなかったのか。
20世紀後半のF1なら何でも良いのかもしれない。
エアトンモデルのメットを渡された静ちゃんがおごそかに被り、ベルトを締めた。
ヘルメットの後ろから出て、背中に流れる髪が非現実的かつアニメライクで、ある種の感動まで覚えてしまう。
「似合ってるなぁ・・・」
「うんうん、うんうん、お似合いでございますお嬢様」
男2人のおかしな盛り上がりを余所に、静ちゃんは蘇我さんが開けたドアから車内に入った。
ヘルメットの中でにこにこしているが、男2人の会話はイヤーウィスパーでまったく聞こえないらしい。
「山本様・・・」
「はい?」
「わたくし、お嬢様にお仕えして17年。この日が来るのを待ちわびておりました」
「へ?」
「山本様のおかげでございます。いつもの速度では遅刻してしまわれるとお察しになられたお嬢様は、御前邸を出る際、わたくしにはっきりとおっしゃいました。あなた様にお弁当をお渡しになった後は時間がギリギリになってしまうので“急いでね”と」
「すみません、オレなんかのために・・・」
「何をおっしゃいます、山本様! この蘇我、今日この時を無くしては死にきれません」
「は、はぁ・・・」
握手どころかハグでもしてくるんじゃないかと思えるほど、情熱的にお礼を言ってくる蘇我さんを見たのは初めてだった。
心なしか、涙ぐんでるようにも見える。
「それでは失礼致します」
蘇我さんがドライバーズシートに身を沈めると同時にイグニッション・オン。
ガオン! ズドドドドドドドドド・・・ズバン!
な、なんだ!?
エンジン始動したあと、回転が下がってアイドル状態になる直前、マフラーが火を噴いた。
アフターファイア!?
バックファイアにも見えたけど、リムジンが不完全燃焼を起こすとも思えないし・・・。
まさか燃料のミクスチャを濃くして、レブリミッターもいじってる!?
グゥゥゥゥゥゥヴォンヴォン、ズババババババ!
ほとんどマシンガンのような爆音が校門周辺に木霊した。
吹かしてもうるさいというのに、エンジンの回転数が下がってくるとアフターファイアが連続して出るのだ。
マフラーからは火炎放射器のような火が噴き出ている。
外見はノーブルなリムジンなのに、音だけはレーシングカーそのもの。
思わず歯を食いしばって、耳を塞ぎたくなる。
事実、校門前で賑わう生徒達は耳を塞いだり、へたり込んだりしていた。
静ちゃんは大丈夫かな?
あ、まだこっちを見てにこにこしてる。
ひらひらと手まで振ってる。
その為の耳栓だったのか・・・。
ってか、後部座席のシートベルトが4点ハーネスに代わってるし!
オレは運転席に乗り込んだ蘇我さんの近くに行った。
スルスルとウィンドゥが降りて、いつもより若干、精悍な顔つきをした蘇我さんが凄みのある笑みを浮かべていた。
「す、すごい音ですねっ!」
アイドル音も並みではないので大声を出さないと蘇我さんに聞こえない。
蘇我さんも爆音に負けじと大声で返事してくる。
「お嬢様のお急ぎ用にと、スペアのリムジンを少々いじりましてございますっ!」
「気をつけてっ!」
「山本様もっ! ここで遅刻させようものなら、たかだかC1最速の走り屋風情を運転手に起用して下さった旦那様に会わす顔がございませんっ!!」
ギュアアアアアアアアアアッ!!!
スキール音を立てて、軽くスネークダッシュしながら、すっ飛んでいくリムジン。
20メートルほどのコンパウンド跡が、校門前のアスファルトに付いていた。
そうか・・・フロントタイヤにちょっとキャンバー角が付いてるなぁと思ったら、セミスリックタイヤ履いてたのか・・・。
ってか、C1最速?
首都高環状線の?
蘇我さんって伝説の走り屋だったんじゃ・・・。
「お〜い、山本。ちとこっち来いや」
物思いに耽る間もなく、オレは生活指導の先生に呼ばれた。
(7)に続く
2012/05/08 初版
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